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泉鏡花と逗子のまち

披露山の住宅街の奥にある大崎公園

逗子マリーナ (3) P1370307.jpg
ここから望む相模湾・江ノ島・富士山・逗子マリーナと小坪漁港の眺望が素晴らしく、また、公園の一番奥にある展望台からは葉山方面に広がる海を望む事ができ、披露山公園と並ぶビュースポットですが、場所が住宅街の奥なので、普段はそれほど人も訪れない静かな公園です。

泉鏡花記念碑 (2)
青い芝生が広がる公園の奥には東屋があり、その傍らにちょこんといるウサギの像。

明治から昭和にかけて活躍した作家『泉鏡花』の記念碑です。

泉鏡花は、石川県金沢の生まれで、尾崎紅葉の作品に感銘を受けて上京、弟子入りし、明治25年の文壇デビューから昭和14年に亡くなるまで、生涯に約300の作品を残した文豪です。

その文豪の記念碑がなぜ逗子に?
記念碑の説明には、鏡花が逗子に滞在し、彼の作品中に逗子の様々な土地が登場する事が記されてありました。

鏡花と逗子の関係は、鏡花の病気療養地が逗子だったことから始まります。

明治のころ、湘南の地域が健康増進・病気療養に適していると注目され、逗子も避暑地として政財界人や文化人・外国人が別荘を構えるようになります。
特に明治22年に鉄道の駅(現JR逗子駅)ができると、東京から1時間ばかりで来られるとあって、沢山の人が海水浴や避暑を目的に訪れるようになります。

鏡花もまた静養のため逗子を訪れます。
はじめは明治35年夏の1カ月程、その後は明治38年夏から明治42年2月の約3年半という長期に及びます。
(※鏡花の逗子滞在期間は、鏡花の自筆年譜では「明治39年~明治41年」と記されていますが、残された書簡等の日付からは「明治38年夏~明治42年2月」頃であることがうかがえます)

そして鏡花は逗子滞在中に、幻想文学の傑作といわれる『春昼(しゅんちゅう)』『春昼後刻(しゅんちゅうごこく)』や、鏡花の代表作であり、半自伝的な新派悲劇として舞台でも好評を博した『婦系図(おんなけいず)』等、多くの小説や随筆を発表します。

中でも明治39年に発表された『春昼』『春昼後刻』は、岩殿寺が重要な舞台として登場し、当時の逗子のまちの様子も描かれていて、明治のころの逗子の様子を垣間見れる、逗子とゆかりの深い作品です。
DSCN4165.jpg

岩殿寺には鏡花自身がよく訪れていて、住職とも懇意で、参拝客の憩いにと池を寄進するなど(今も観音堂境内傍に「鏡花の池」を見ることが出来ます)、お気に入りの場所だったようで、作品では岩殿寺の様子が詳しく描かれています。

『春昼・春昼後刻』の主人公(自らを“散策子”と称して名前は出ない)は、逗子停車場(現JR逗子駅)の落成式の喧騒を逃れて散策がてら岩殿寺へやってきます。

小説内には、階段も境内からの眺めも観音堂も細かく描写されています。
DSCN4175.jpg 岩殿寺眺望アップ DSCN4189.jpg

“観音堂に、ところせましと貼られた巡拝の札
その札にまぎれるように貼られた懐紙には、小野小町の恋歌と“玉脇みを”の名があり…”

観音堂で見つけたその懐紙の歌と名前に興味を惹かれた主人公は、そこから不可思議な恋の物語にかかわっていくことになります…

作品中、当時“逗子停車場”と呼ばれていた逗子駅の駅舎建て直し落成式の様子がにぎにぎしく描かれているのですが、調べてみると事実逗子駅は、葉山御用邸に行啓される天皇陛下をお迎えするため、明治39年に建て直されたそうです。

きっと鏡花が逗子滞在中に、実際に見た様子が描かれているのだと思うと、この作品に描かれている逗子の景色のどれもが、鏡花の目を通して当時の逗子をタイムスリップして見ているように思えました。

この作品を読んだ後に岩殿寺に行くと、緑に包まれた静かな境内が、夢と現の狭間にあるような、ちょっと怖いような、なんとも不思議な場所に感じられました。

最近、作品の舞台になった場所をファンが“聖地”と呼んだりしますが、逗子や岩殿寺も鏡花作品のファンにとっては“聖地”の一つなのかもしれません。


ところで、鏡花の記念碑がなぜウサギさんなのか?ですが

鏡花は幼い頃、母から“自分の干支から数えて七番目の物を集めると幸運が訪れる”と、水晶でできたウサギを贈られました。
向かい干支は幸運をもたらすという言い伝えがあります。(“向かい干支”とは、円を12分割して干支を円状に並べた時に、自分の干支の向かい側に来る干支を指します)
鏡花は酉年なので向かい干支が兎です。
幼くして母を亡くした鏡花は、母への思慕も強かったのでしょう、その教えを大切にしました。
鏡花は生涯にわたりウサギの小物を集め、「ウサギのコレクター」としても知られています。

記念碑は、そんなウサギ好きの鏡花にちなんだもので、碑には「秋の雲 尾上のすすき 見ゆるなり 鏡花」という直筆の歌が刻まれており、すすきの自生する高台の大崎公園に設置されたそうです。



『不如帰』の川島(片岡)浪子、『春昼・春昼後刻』の玉脇みを 
 ―逗子には美しいヒロインが二人もいるのです


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逗子と平家物語 ~六代御前~

逗子には『六代御前』と呼ばれている場所があります。

地元では、すっかり地名として馴染んでいますが、ここには史跡『六代御前のお墓』があります。

IMG_0066.jpg
大きなケヤキの木に守られるようにして、静かに佇む六代御前の墓

六代御前と聞いて、それが誰なのかピンとくる人は、地元の人でもそう多くはないと思います。
なぜなら、本来ならまさか逗子にいるはずもない人物なのです。
 
六代御前は、本名を平高清といい、平家物語でもお馴染の平清盛の曾孫にあたります。
六代とは平家の初代を正盛として―忠盛―清盛―重盛―維盛―高清
平家の六代目に当たるところから、そう呼ばれていました。

平家の六代目の嫡男であり、そして彼を最後に平家の血は絶えます。
平家終焉の地がこの逗子であり、栄華を極めた一族所縁のお墓がひっそりとあることに、少し驚きを感じます。

六代御前は、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、京都の菖蒲谷に隠れているところを捕らえられ、処刑されそうになるのですが、文覚上人が頼朝にとりなし、一命をとりとめます。
文覚上人は、頼朝に源氏の挙兵を促した人物であり、さしもの頼朝も断れなかったのでしょうか。
あるいは、頼朝自身も源氏の棟梁でありながら、平清盛に生かされた身の上である事で、情が動いたのでしょうか。

こうして、六代はしばらくは平穏に過ごし、仏道修行に励んでおりました。
ですが、正治元年源頼朝が病死し、文覚上人が流罪になると、後ろ盾のなくなった六代は、北条時政の手によって再び捕らえられ、この田越川付近で斬首となります…

「三位の禅師(六代御前)斬られて後、平家の子孫は永く絶えにけり。」
と平家物語でもその嘆きを語っています。
(詳しくは 『平家物語』巻第十二 泊瀬六代の事  付 六代斬られの事 )


ですが、いまでは、そんな物悲しさも感じられず
田越川の傍で、静かにひっそりとたたずんでいる『六代御前のお墓』

逗子の風景の中に溶け込み、今は穏やかに眠っているようです。


六代御前の墓 (3)


六代御前の墓


六代御前の墓 (4)


逗子海岸へとゆったり流れる田越川沿いは、桜山の緑をバックに風情ある景色が望めます。


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逗子-渚橋の風景

 海の家もすっかり片付き、少し静かになった逗子では、
最近ちょっと話題になったできごとがありました。

 それは、渚橋のデニーズの閉店です。
9/28に28年の歴史に幕を下ろしたデニーズは、単なるファミレスに
とどまるものではありませんでした。
 逗子海岸を一望する最高のロケーションにあり、多くの人が
その場所で逗子海岸を眺めながら、友達と、恋人と、家族で、
思い思いの時間を過ごしてきました。
 閉店の数日前から、ひっきりなしにそんな人々が訪れ、閉店の
時間まで、別れを惜しんでいました。

渚橋デニーズ  

渚橋デニーズ 

  このときは、地元の人たちだけでなく、いろいろな所から人が訪れて、
逗子の海がどれだけ愛されてきたかを実感した出来事でもありました。

 今日は思い出となる写真をお届けします。

ダイアパレスより 

 また晴れたある日、とあるマンションから逗子を一望してみました。
緑と海に囲まれたこの地の素晴らしさをあらためて感じました。

 多くの方にこの逗子のよさ、湘南のよさを知ってもらい、
渚橋のデニーズの ように心に残るお店でありたい、と思います。

 
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